2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

world estate

FX Trade

  • FXチャート ブログパーツFX

資源貿易リンク

記事リスト①

  • 2010.1-10 記事リスト①
    中国の貿易政策と海外戦略 10/10/21 中国レア・アース危機への対応 10/10/21 中国との貿易交渉術 10/10/19 円高デフレと産業構造変化 10/10/18 日本と資源大国ロシアの石油産業 10/10/18 非資源国の石油調達戦略 10/10/15 日本の貿易政策;FTA協定(4) 10/10/11 日本の貿易政策:FTA協定(3) 10/10/11 日本の貿易政策:FTA協定(2) 10/10/11 日本の貿易政策:FTA協定(1) 10/10/11 日本貿易の生命線:輸出市場の転換点 10/10/06 日本の資源エネルギー貿易政策(3) 国際独占資本ロイヤルダッチシェルのアジア市場戦略 10/10/02 JETRO 海外調査部 中国市場開拓セミナー参加報告 10/09/09 (2)産業空洞化( de-industrialization )と貿易政策 10/09/07 貿易政策の使命:外需(外部経済)としての景気対策(1) 10/09/07 中国農民工の子弟と日本の大学教育 10/08/21 貿易の定義(教材) 10/06/26 拓殖大学大学院 商学研究科説明会  貿易論の講座内容 10/06/26 2010 国際商取引・貿易演習ゼミ 科目構成(武上ゼミ) 10/06/26 国際取引論の学問体系について 10/06/26 円高による輸出不振は日本産業の空洞化を招く 10/06/26 授業参考資料:日本石油産業転換点(6/23出典ダイヤモンド小島武志氏) 10/06/23 拓殖大学経営経理研究所 研究発表・研究紹介 2010.4. 10/06/23 日本経済のサービス化とサービス貿易の発展 10/06/23 日本と世界のエネルギー貿易(基礎ゼミ資料) 10/06/23 日本のエネルギー資源貿易政策(2)戦後石油産業生成期から見る貿易特性 10/06/23 定期考査・課題リポートの件 10/06/17 貿易論を学ぶ学徒へ:恒産なくして恒心あり 10/06/16 国際取引・貿易ゼミ 「卒業論文のテーマ設定について」 10/06/15 拓殖大学商学部 多国籍企業論 キーワード 講義メモ 2010/5 東洋経済新報社版 テキスト 第8章 独占と不完全競争 10/04/09 東洋経済新報社 テキスト 第9章 寡占経済 10/04/09 2010年度 商学部 国際取引・国際貿易論 講義要項 10/04/09 2010年度大学院商学研究科 講義要項 10/04/09 講義資料:中国・台湾貿易の特徴 (学内使用に限るJETRO HP出典資料より修正) 10/04/09 円高問題とデフレ経済 10/04/09 国際収支・対外負債勘定の急激な変化 2010 10/04/09 国際独占資本の市場支配 10/04/08 資源無き国の貿易政策 10/04/08 貿易通貨と円の起源 10/04/08 中国留学生へ 学問・資格 10/02/20 貿易理論 講座研究用資料 ダウンロード1 10/02/18 経済・貿易理論 第十五章 東洋経済新報社版 テキスト 10/02/17 経済・貿易理論 第十七章  10/02/17 経済・貿易理論 第一章 (東洋経済新報社版 オンラインテキスト)10/02/17 東アジア貿易の構造変化分析 10/01/22 Research & Development Management and Technology Transfer 10/01/20 一年生オリエンテーション講義 10/01/20 技術拡散と市場成果 10/01/20 経営戦略と市場行動 電子技術関連産業と製品市場構造 10/01/20 グローバルR&Dシステムの構築 10/01/20 MNCの内部化理論 10/01/20 市場成長と技術のプロフィール 10/01/20 自動車産業の貿易構造と産業内分業体制 10/01/20 国際技術移行モデル(事例分析) 10/01/20 技術革新と国際投資市場 10/01/20 プロダクトライフサイクル仮説と製品市場戦略 10/01/20 Product design and market strategy(3) 10/01/20 Strategic Information System & technical method of marketing simulation 10/01/20 国際市場と競争戦略 10/01/20 APPROACH TO THE ANALYSIS OF COMPLEX SYSTEM 10/01/20 Analyses of Purchasing Behavior in the Artificial market & its agents 10/01/20 An analysis on product design(1) Characteristic of precision-optical-products market 10/01/20 An Analysis on Product Design (2) Market character of Precision optical products 10/01/20 INTERNATIONAL TRADE&TECHNOLOGICAL INNOVATION 国際貿易と技術革新 10/01/20 Analysis on Information Technology and corporate strategy 10/01/20 国際取引論講義2009年度 案 10/01/20 研究の過去実績(2001年まで) 10/01/20 不完全市場の企業戦略 10/01/20 進路開拓と就職準備について 10/01/20 Structure of product market & corporate strategy(material) 10/01/20 国際取引論の学問体系 10/01/20 研究領域の紹介(武上ゼミ) 10/01/20 貿易の働き(講義資料) 10/01/20 拓殖大学大学院商学研究科のガイダンス 指導内容 10/01/20 日本のエネルギー資源貿易政策(3) 10/01/20 日本のエネルギー資源貿易政策(2) 10/01/20 日本のエネルギー資源貿易政策(1) 10/01/20 円高による輸出不振は日本産業の空洞化を招く 10/01/20 多国籍企業論の内容 10/01/20

燃料油脂新聞社

国際エネルギー機関 IEA

http://www.exxonmobil.com/Corporate/

エクソン・モービル(スタンダードオイル)

Royal Dutch Shell ロイヤルダッチ・シェル

Pertonas ペトロナス (マレーシア)

GAZPROM ガスプロム(ロシア)

CNPC ペトロチャイナ

AGIP/ENI(イタリア)

Chevron(US)

PERTAMINA(プルタミナ・インドネシア)

k takegami

  • k takegami

石油動向:石油情報センター日本エネルギー経済研究所

JOGMEC:石油天然ガス・金属鉱物資源機構

投稿リスト

  • 貿易関係 リンク・リスト
    JETRO http://www.jetro.go.jp/links/ 経済産業省 ‐外務省 資源エネルギー庁 税関総務省統計局、統計センター 環境省 . OECD日本政府代表部 ‐投資委員会「多国籍企業行動指針」 日本貿易保険 産業技術総合研究所 (財)国際経済交流  国立環境研究所 経済産業研究所 中小企業基盤整備機構 国際協力銀行(JBIC) 国際協力機構(JICA)科学技術振興機構 ‐サイエンスポータル国際観光振興機構(JNTO) 日本銀行 東京商工会議所 (社)日本経済団体連合会(社) 環日本海経済研究所(ERINA) 日本銀行金融研究所 日本商工会議所(財)経済広報センター..貿易・投資関係機関等(財)日本関税協会(財)国際貿易投資研究所(ITI)(財)対日貿易投資交流促進協会(MIPRO) (社)日本貿易会 (財)貿易研修センター日・欧産業協力センター日露貿易投資促進機構 (財)海外貿易開発協会 (財)海外技術者研修協会 (財)安全保障貿易情報センター(CISTEC) (社)日本通関業連合会貿易アドバイザー協会(AIBA)
  • 投稿リスト
    タイトル 技術拡散と市場成果 経営戦略と市場行動 電子技術関連産業と製品市場構造 グローバルR&Dシステムの構築 MNCの内部化理論 市場成長と技術のプロフィール 自動車産業の貿易構造と産業内分業体制 国際技術移行モデル(事例分析) 技術革新と国際投資市場 プロダクトライフサイクル仮説と製品市場戦略 Product design and market strategy(3) Strategic Information System & technical method of marketing simulation 国際市場と競争戦略 APPROACH TO THE ANALYSIS OF COMPLEX SYSTEM Analyses of Purchasing Behavior in the Artificial market & its agents An analysis on product design(1) Characteristic of precision-optical-products market An Analysis on Product Design (2) Market character of Precision optical products INTERNATIONAL TRADE&TECHNOLOGICAL INNOVATION 国際貿易と技術革新 Analysis on Information Technology and corporate strategy 国際取引論講義2009年度 案 1 研究の過去実績(2001年まで) 不完全市場の企業戦略 進路開拓と就職準備について Structure of product market & corporate strategy(material) 一年生オリエンテーション講義 国際取引論の学問体系 研究領域の紹介(武上ゼミ) 貿易の働き(講義資料) 拓殖大学大学院商学研究科のガイダンス 指導内容 日本のエネルギー資源貿易政策(3) 日本のエネルギー資源貿易政策(2) 日本のエネルギー資源貿易政策(1) 円高による輸出不振は日本産業の空洞化を招く 多国籍企業論の内容

DOE:アメリカエネルギー機関

Oil and Gas Investor エネルギー市場情報

講演・セミナー実績

  • 講演会・セミナー・フォーラムなど実績
    講演会・セミナー・フォーラムなど実績 講演会: ①株式会社アマダ社 ②テレビ朝日 ③日本ビジネスコミュニケーション学会 ⑤全国信用金庫協会     ⑥愛知県経済同友会主     ⑦愛知県半田市役所     ⑧愛知県常滑市役所    

OPEC 石油輸出国機構

JICA院生訪問

  • 198 2011 6-10 JICA 横浜 訪問
    2011 6-11 JICA 横浜 訪問講義と見学

AngloAmerican アングロアメリカン (資源メジャー)

職業訓練(貿易英語・貿易実務)のページ 2014 大学院貿易講座

  • 厚生労働省東京、神奈川労働局の実施する職業訓練 (数少ない貿易分野の仕事志望者を支える技術訓練) 貿易分野の業務は、これまで経験重視のキャリアプランが中心だったが、IT化が税関NACCS他用いられ、またグローバル化により様相が変わってきている。特にモノからサービスへの貿易転換で、取引仕組みや、ドキュメント作成のディスシプリンもファイナンス取引に移行している。 (2013年度訓練生の皆さんと)

レアメタルリアルタイム市況チャート

レアアース市況動向

原油・石油製品市況

ウラン市況動向

米国政策提案リベラル系シンクタンク:ブルッキングズ研究所

戦略国際問題研究所CSIS

ロイター経済情報

  • ロイター経済情報
    CFDブログパーツCFD

経済チャート・市況情報

米国エネルギー株 市況

DowJones U.S.Market Atlas 米国企業情報データベース

中国ビジネスサポートサイト「Chinawork」

飯野海運株式会社

Frontline(フロントライン)

Energy Bulletin : Post carbon institute

旧外地産業・戦前石油関係資料室

パリOECD本部  forum 2011

  • 50asite
    OECDパリ本部 12/6-8 国際投資フォーラム出席 戦後最大の経済危機を迎えたEU経済は、それに依存するアフリカ、中南米、アジアの国々に多大な影響を与えている。米国主導のOECDが、この難局に政策提案する。

Dubai

  • DUBAI_599
    2011 12./10 ドバイ 国際貿易(ワールドトレード)センター 訪問

石炭大国旧東欧ポーランド訪問

  • 日本CCT技術にエネルギーのトレードオフ関係の可能性
    石炭王国ポーランドと日本のCCT技術:炭鉱の町訪問記2009 CCTクリーン・コール・テクノロジーでは先進技術を持つ日本技術の提供とポーランドの二酸化炭素排出権を供給するというトレードオフの関係強化のため、近年、政府もアプローチをおこなっている
FX 口座開設

gogo.gs
無料ブログはココログ

高島嘉衛門 「横浜築港を巡る時代先見性と明治期のアントレプレナール」拓殖大学オープンカレッジ文京講演会2012、12.1

高島嘉衛門 「横浜築港を巡る時代先見性と明治期のアントレプレナール」

拓殖大学オープンカレッジ文京講演会2012、12.1

(講演進行)

1.横浜港のあゆみ(明治期の政策決定がその後の発展に結実)

2.高島嘉衛門と伊藤博文(両者のアントレ)

3.功績の評価(明治の精神が問いかけるもの)

(概要)

①明治期に開かれた横浜港は、その将来展望から基本的な設計がなされ、日本の経済発展に大きく貢献してきた。その開港の時期から日清、日露戦争と大きく国政が揺れ動く時期の伊藤、大隈といった明治の群像の陰の立役者に高島嘉衛門が居る。

②高島は、開国派として長州閥とどのように連携して、横浜発展の諸事業を断行したか。そこには巷に言われる易学、奇策による意思決定よりも、私財にまったく固執しなかった貧農、松下村塾出身の伊藤、そして横浜に私財を慈善、寄附した高島などに、両者、共鳴するアントレ「(武士道にも似た)私心無く純粋、ロマン的な小宇宙観」という、我々の今、振り返るべき明治の精神があったと考えられる。

③開国期に、藩閥で自己利益に固執した藩は全てを失い、滅私的な将来展望持つ藩だけが改革により困難期を乗り越えた。通貨危機、原発事故、自然災害、家族崩壊など、科学万能主義、市場経済合理主義といった現代の知識は、我々に真の幸福をもたらさなかった。今はまた、この国難の時期にあって、我々は、これら利欲無き群像に問い掛けてみるべき時である。

キーワード:殖産興業と横浜、開港期の明治、明治期の世相、開国派、松下村塾、日清戦争、皇典講究所、アントレプレナール(起業家精神)、武士道の小宇宙観

1.横浜港のあゆみ

(明治期の設計がその後の発展に結実)

①明治21年:伊藤・大隈による築港計画、高島請負、その後の発展。

②大正12年:関東大震災復興計画で現在の横浜港湾の原型完成。

横浜港の年表 (近世以降 トピックス○)

仁治2年(1241年)

六浦湊と鎌倉を結ぶ朝夷奈切通が開通、

現・横浜港域(神奈川湊、そして横浜港の原型が形成)

明徳3年~元中9年(1392年)

神奈川湊築港

慶長6年(1601年)

江戸幕府が東海道の宿場、神奈川宿設置。武蔵金沢藩(六浦藩)領地となる

元禄7年(1694年)

明の心越禅師が六浦湊の景色を故郷の瀟湘八景になぞらえて漢詩

にして詠み、横浜南部地域を金沢八景と命名。

○嘉永7年(1854年)

武蔵国久良岐郡横浜村で、日米和親条約(神奈川条約)が締結される。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー (図)

安政4年(1857年)

浮世絵・歌川広重による「武陽金沢八勝夜景」、金沢八景を描いた

*ペリー来航日、翌年嘉永7年(1854年)には再度来航し幕府の態度が表明されるまでの間、六浦湊外周の小柴舳沖(武蔵金沢藩(六浦藩)=横浜市金沢区)に2ヶ月間投錨。厳重な態度の幕府や乙舳海岸に陣を張り物々しい六浦藩とは裏腹に、民間には漁師の獲った魚や艦隊側ビスケットを差し入れし合うなど記録されている。

○安政5年(1858年)

神奈川沖で日米修好通商条約が締結され、「神奈川」の開港

*ハリス、井伊直弼間の不平等条約:改税約書・開港延期問題

安政の大獄・外国人居留地、ドル通貨問題など、その後の条約改正(1911陸奥宗光)に至る大きな禍根を残す。

*神奈川湊の対岸にある武蔵国久良岐郡横浜村に応接所を設置してペルリの一行を上陸させ協議に臨んだ結果、日米和親条約(神奈川条約)を締結した。その後、安政5年(1858年)には神奈川沖小柴に浮かぶポーハタン号上で結ばれた日米修好通商条約(安政五カ国条約)により神奈川の開港が定められた。

○安政662

185971日)

横浜港開港。同時に、神奈川運上所(現・財務省横浜税関)を設

置。横浜村を横浜町と改称。安政の開国による開港五港の一つ

*横浜は大岡川によって土砂が堆積するという不利点があったものの、南に本牧台地があるため風を防ぐ利点があった。横浜沖はすぐに水深を増す工事が施された。横浜村は砂州上の半農半漁の寒村。

*下岡蓮杖の浄瑠璃「横浜開港奇談 お楠子別れの段」では開港の功労者として吉田新田の吉田勘兵衛、保土ヶ谷宿本陣家の軽部清兵衛、石川村名主の石川徳右衛門を挙げている。

明治10年(1877年)

*横浜港開港。(これに因んで後に横浜市6月2日を開港記念日)開港に先立ち幕府は横浜への出店を奨励する御触を出し、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋のほか全国から一旗揚げようと意気込む商人が集まり横浜は急速に発展した。

*開港当時、外国商館への輸出品の販売は「売込」、輸入品の購入は「引取」と呼ばれそれぞれ売込商人・引取商人という横浜商人を通して取引が行われた。明治初期までの代表的な輸出品は生糸と茶であり、輸入品は綿糸・織物と砂糖などである。生糸輸出は昭和恐慌期に至るまで綿花輸入と並ぶ最大の貿易品であり横浜は生糸貿易港として世界に名を馳せた。また外人居留地は治外法権域で、日本官憲が手が出せなかった。このため横浜外人居留地の賭場は不法遊興で大賑わいだった。(明治の侠客「埋地の仙太」2001)

○明治21年(1888年)

外相大隈重信が、首相伊藤博文に対し横浜港の整備を建言。

建言では、イギリス陸軍工兵大佐・パーマーの監督下、翌年より築港工事が始められた。高島嘉衛門、築港工事を請負。

高島嘉右衛門、吉田勘兵衛、苅部康則は「横浜三名士」と称され横浜築港の貢献者とされた。

明治22年(1889年)

旅亭東屋、千代本(横浜港南部金沢八景)にて伊藤博文により草案された明治憲法が発布。(大山や江の島は酌婦や遊び女を入れてはならない浄地だったため、金沢が「精進落し」の場所となった。(図)

○明治27年(1894年)

鉄桟橋(大さん橋:通称 メリケン波止場)竣工。日清戦争開戦。

明治29年(1896年)

横浜船渠第2号ドック(現・ドックヤードガーデン)が竣工。

*日清戦争を経て東洋最大の港となった神戸港に対抗すべく、埠頭や海陸連絡施設など大規模な港湾施設の建設が積極的に行われた。

(横須賀港(軍港)、横浜港(旅客移民港)の位置づけ)

明治32年(1899年)

海陸連絡施設の整備を目指して、第2期築港工事を開始

*赤レンガ倉庫および新港埠頭は、横浜市が政府に建設を働きかけて完成させた。建設費用は米国に支払った下関事件賠償金が返還され充当。(大隈、井上馨、伊藤と高島が対米交渉、1863年下関事件での長州の支払った賠償金300万ドルの内、米国支払い分を10年後、取り戻すことが出来た。)

明治37年(1904年)

日露戦争開戦。

明治42年(1909年)

開港50年祭実施。

明治44年(1911年)

赤レンガ倉庫完成(2号倉庫。1号倉庫大正2年(1913年)完成

大正3年(1914年)

第一次世界大戦開戦。

大正6年(1917年)

新港埠頭完成。開港記念横浜会館竣工

大正10年(1921年)

内務省横浜土木出張所横浜港修築工場(現・国土交通省関東地方整備局京浜港湾事務所)を設置。

大正12年(1923年)

関東大震災

*復興事業は市長・有吉忠一指揮下、神奈川県と横浜市、生糸商などの横浜商人他、市民らにより国の力も借りて進められた。復興事業:生糸検査所、ホテル・ニューグランド、神奈川県庁庁舎(キングの塔)、横浜税関庁舎(クイーンの塔)や瓦礫を利用して造成した山下公園など今の横浜を代表する建築、名所が造られた。事業のための巨額の資金はアメリカでドル建て市債を発行して賄ったが、この膨大な負債はその後長く市財政を圧迫した。(図)横浜三塔

昭和5年(1930年)

震災瓦礫を埋め立てて山下公園が開園

昭和9年(1934年)

横浜税関現庁舎(クイーンの塔)竣工 。

昭和17(1942年11月)

横浜港ドイツ軍艦爆発事件 4隻大破 死者102名

ウォッカーマルク(ドイツ高速タンカー爆破事件)戦後まで極秘とされた。(神奈川新聞が後に公表)(図)

昭和20年(1945年)

第二次世界大戦終戦。港湾施設の大部分が連合国軍に接収。

昭和24年(1949年)

港湾施設等の接収が解除され始める(瑞穂埠頭やその周辺水域

小柴水域や新港埠頭の一部を除く。現在も在日米軍が管理)

*鶴見抗争により、海運業者(ウミ)を日本海運協会に、沖仲士、港湾労働者など(リク)従業員を日本海運共同組合に統合。

昭和25年(1950年)

横浜国際港都建設法(昭和25年法律第248号)公布。

昭和26年(1951年)

横浜市が港湾管理者、正式名称「横浜港」となる。港則法では「京浜港横浜区」と呼称、「金港」の美称を持つ。

昭和33年(1958年)

開港100年祭。

昭和36年(1961年)

横浜マリンタワー(高さ106m建築認可は灯台)が建てられる。(図)

昭和39年(1964年)

初代大桟橋旅客ターミナル竣工。

昭和56年(1981年)

横浜港埠頭公社設立。

昭和58年(1983年)

三菱重工業横浜製作所移転し、跡地にみなとみらい21着工。

昭和61年(1986年)

本牧ふ頭D突堤に横浜港シンボルタワーが建てられる。

平成元年(1989年)

横浜ベイブリッジ開通。シーサイドライン

(横浜新都市交通金沢シーサイドライン)開通。横浜博覧会開催。

平成2年(1990年)

大黒ふ頭完成。

平成3年(1991年)

みなとみらいさん橋(ぷかりさん橋)完成。

平成5年(1993年)

横浜・八景島シーパラダイス開業(マリーナ港区と分区指定なしエリア人工島・八景島上)。

平成6年(1994年)

鶴見つばさ橋開通。

平成8年(1996年)

総合保税上屋YCC(Yokohama port-Cargo Center)

平成10年(1998年)

横浜ベイサイドマリーナ開業。

平成13年(2001年)

南本牧埠頭供用。

平成14年(2002年)

大さん橋国際旅客ターミナルがリニューアルオープン。

平成16年(2004年)

横浜高速鉄道みなとみらい21線開業。

横浜ベイブリッジ下部(本牧-大黒間)に国道357号線開通。

平成17年(2005年)

本牧BC間埋め立て完了、BCコンテナターミナル全面供用。

平成21年(2009年)

開港150周年記念事業として「開国博Y150」が開催される。

(開港)

江戸幕府は安政5年(1858年)の日米修好通商条約、日英修好通商条約(安政五カ国条約)で「神奈川」を開港場としたが、繁華な場所への外国人の雑居により攘夷騒動などのトラブルが起こることを懸念し、出入りの管理が容易で街道筋から離れた対岸の横浜村(現在の神奈川県庁付近)に開港場を開設。横浜の港湾設備その他の施設が充実してゆくにつれて、神奈川宿は衰退し、横浜が発展し始めた。

(幕末期の横浜)

安政6年(1859年)、安政五カ国条約に基づき開港場とされた横浜と近傍区域(神奈川宿、程ヶ谷宿、本牧、根岸など)の行政を担当する神奈川奉行が設けられ、神奈川奉行所が武蔵国久良岐郡戸部村(横浜市西区紅葉ヶ丘、神奈川県立図書館付近)に、関内の現在神奈川県庁が建つ位置(横浜市中区日本大通)には神奈川運上所(横浜税関の前身)が置かれた。神奈川奉行は横浜周辺の行政とともに、条約で「横浜から十里四方」とされた居留外国人の遊歩区域に関する事務も管掌した。

(明治初期の横浜)

慶応4年(明治元年)3月19日神奈川奉行所の戸部役場(内務担当)、神奈川運上所(外務担当、現税関)は新政府軍に接収。同年6月17日(8月5日)には神奈川府となり、同年9月21日(11月5日)に神奈川県に改称。寺島宗則が神奈川県の知県事に任命。半年余のうちに4度も機構変革・改称が行われたことになる。

明治2年(1869年)、神奈川県域では、小田原藩・荻野山中藩・六浦(むつら)藩が版籍奉還を願い出て同年6月(7月)に各藩主が知藩事に任命、全国的には中央集権化が進んだ。

(現代の横浜港)

港湾管理者は横浜市。港湾法上の正式名称は横浜港。港内の船舶交通を図る港則法では「京浜港横浜区」と称す。東アジアの大規模港に対抗するため新たに設けられた国際戦略港湾・京浜港(ハブ港)の一翼を担い、国土交通省より「国際コンテナ戦略港湾」指定を受ける。

2.高島嘉衛門と伊藤博文(両者のアントレ)

(明治の世相)

(視点1)明治期は、江戸期までの制度、風習が急激に変化した時代、特に戸籍、氏姓制度改革等を通じて、僅か4%前後の華士族が、93%の平民を支配するエリート社会となる。この社会層が大変動した時期に、一部の新興層が大きな社会進出の機会をもった。

(壬申(じんしん)戸籍)

①明治2年旧暦6月4日(1869年7月12日)、民部省は各府藩県に戸籍編製を通達し、翌明治3年付の庚午戸籍や明治4年付の「辛未戸籍」が作成された(頒布された書式は長州藩が作成した戸籍仕法書)。

②全国で統一の戸籍は、明治4年旧暦4月4日布告の戸籍法と明治4年旧暦8月28日の「解放令」を受けて作成された「壬申(じんしん)戸籍」。江戸時代「宗門人別改帳」に代わり、皇族から平民までを戸を単位(家父長制)に集計した。

明治5年の族籍別人口表では、今上天皇睦仁、皇太后夙子、皇后美子の男1名女2名を含む皇家(皇室)3名が皇族に集計されていない。(人口33,110,825人

男女族籍別人口表(明治5年旧暦129日(西暦187238日)調)

身分

戸主男

戸主女

戸計

人員計

人口中%

皇族

7

4

11

14

15

29

0.000088

華族

459

0

459

1,300

1,366

2,666

0.0081

士族

258,939

13

258,952

634,701

647,466

1,282,167

3.9

166,873

2

166,875

334,407

324,667

659,074

2.0

地士

646

0

646

1,715

1,601

3,316

0.010

75,925

0

75,925

151,677

60,169

211,846

0.64

旧神官

20,895

43

20,938

52,141

50,336

102,477

0.31

-

6,068

6,068

0

9,621

9,621

0.029

平民

6,326,571

170,752

6,497,323

15,619,048

15,218,223

30,837,271

93

樺太人員

-

-

-

1,155

1,203

2,358

0.0071

6,850,315

176,882

7,027,197

16,796,158

16,314,667

33,110,825

100

*江戸時代の氏姓制度

(名字)支配階級である武士や、武士から名乗ることを許された者のみが持つ特権的な身分表徴公式な場で家名を名乗るのも武士や公家などに限られていた。

(私称)町人には、大黒屋光太夫など屋号を名字のように使う例も見られた。

東日本では、百姓も屋号を名乗ることが多かった。家長が代々襲名する名乗りを屋号とすることが多くしばしば私称の名字と組にして用いた。

*明治維新以前の氏姓制度

(成人男性)

①家名(カメイ)と氏(ウヂ。本姓):一族名、

②通称(仮名:ケミョウ)と実名(諱)(ジツメイ、イミナ):個人名

*人名としての実際の配列は、家名、仮名、氏、実名の順。例:「大石内蔵助藤原良雄」

家名(名字)が「大石」、氏が「藤原」、通称が律令官名で内蔵寮の次官を意味する「内蔵助」、実名(諱)が「良雄(よしたか)」

*文人名:号、若しくは音読み名  伊藤博文「はくぶん」  木戸孝允「こういん」

(女性の氏姓)

*諱(イミナ)が記録に残ることが少なく、後世でも通称でしか知られず諱が不明のままとなっている例が多い。庶民が名字を名乗った中世後期には、庶民の女性も、童名のままながら、「ねね」「やや」「とら」など、より独立した存在として記録に残された。

・実名(諱)は、朝廷と関りある階層以外は、実生活で使うことがなかったため周囲の者が実名(諱)を知らず後世に伝わらないことも起こった。「西郷吉之助平隆永」(さいごうきちのすけたいらのたかなが)は、親友の吉井友実が父の実名(諱)「隆盛」と勘違いして朝廷に奏上したため新政府公文書では「平朝臣隆盛」、戸籍令以降は「西郷隆盛」となった。

(明治期以降の氏姓制度)

*壬申戸籍:旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および諱と通称の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗り、自由だった改名の習慣が禁止された。

*戒名の普及:死亡すると、仏教式の葬儀を行い、戒名(法名)を付ける。戒名とは、仏門に帰依して授戒した出家・在家の者に与えられる名。名字+戒名の呼び方は、戦国時代(室町時代後期)武家の慣習:(武田信玄・上杉謙信・山名宗全・大友宗麟など)

(視点2)姓名(1871年戸籍法)、方位、暦月(1870年、天文暦道が東京大学へ移管、レゴリオ暦と神武紀元制定)、宗教(神道統一、皇典講究所)等、私たちの日常基盤の生活風習も大きく変化した時代に不安な生活の行方に指針を与える易学が重要な役割を持った。

高島易断)

平成24年国運予断の卦(け):壬・辰(みずのえ・たつ)の年
「時運易断」によれば、国運は「火天大有」であり、「天高く輝く太陽が、万物を照らし、自然の神の恩恵を、あまねく行き渡らせる象」とあり、「豊国を目指すことが、最優先課題」。日本経済は「兌為澤:志のある者それぞれが、敵に塩を送るが如く、世界に向かって切磋琢磨することで共に向上の道を模索し、さらに個人の持つ技術や経験そして改革の覚醒を、積極的に行うことが急務」とされ、政治は、「風水渙:机に身を委ねて、時を待て」で、「期待出来ない。」とある。(「高島易断」HP)

高島嘉衛門・高島嘉右衛門の生立ち)

幼少名は清三郎、父(通称:遠州屋嘉衛門、嘉兵衛:本名 薬師寺嘉衛門)の事業を継いで二代目:高島嘉兵衛、次いで高島嘉衛門。後、江戸を退き、高島嘉右衛門と改名、晩年は、高島呑象(どんしょう)。姉(せん)

*易の本家である中国で廃れた「易」が高嶋によって再興され、清国(中国)の宰相である李鴻章から激賞された人物でもある。

*紙腔琴で著名な戸田欽堂lは、嘉永3(1850)、大垣藩主第9代戸田氏正と戸田の側室であった高島せんとの間に生まれた。せんは、横浜の豪商であり高島易断の祖である高島嘉右衛門の姉にあたる。

*スミス・ライマン(鉱物学者)も北海道炭鉱鉄道事業で高島翁と接触。(易断で鉱区を放棄したと伝えられる)

(明治の時代世相)

*明治三年の法律「新津綱領」に「凡ソ厭魅ヲ行ナヒ、符書ヲ.造リ、呪詛シテ人ヲ殺サント欲スル者ハ、各謀殺ヲ以テ諭ス」とある。祈祷には力があり、禁止すると法律に謳う。

(視点3)民衆のエリート職(憧れの職業):現代の人生相談は、医師、弁護士、経営者等の専門技能をもつ生活実務者が回答者になる実用的相談が多い。明治期の人生相談は、僧侶や占い師、宗教家(多く医療も兼業)が当たり、摂理や道理を説いていた。

*江戸、明治期の「当世の二大占い師」

①「水野南北」

無頼の徒で、牢屋に入れられ囚人を観察していると共通点がある事に気付く。「三白眼(虹彩(黒目)部分が小さく、白目部分の面積が多い)」が牢屋には多くいる。出所後、寺へ出家、僧侶となってから人相学を究める。江戸当時、本一の人相見と呼ばれた。「人の運勢は改善出来る、そして最も大事な事は「食生活」である」事を説いた。

②高島嘉右衛門

材木販売、製鉄、建設業、陶磁器の海外への販売、料亭経営、鉄道敷設、下水工事業、港湾埋立て請負及び沖仲士手配業、学校を造りガス灯を灯し芝居小屋まで経営。観察眼に優れ「易は神と人との交話であり、占い(筮竹(ぜいちく)を使った卦)は人生の正しい道を展望して、その一々を指摘する手段」と謳う。大衆の不安な心の拠り所「易学を宗教と捉えた」のが大きな特徴。

*実業経営者が出家、仏門入りするケースは現代では稀だが、過去には多かった。

(アントレプレナール:起業家精神 entrepreneur:=危機に臨んで下す判断力)

*現代人の起業意識:「経済革新につながるイノベーションの担い手」J.シュムペーター

①環境変化に適応する柔軟性(48%)

②決断力・積極性(36%) (中小企業庁創造的活動実態調査2010)

経営手法は発展を遂げ、IT数理処理による意思決定判断など、自然、社会科学は、さまざまな意思決定ツールを開発し、我々は程々の経済成功を手にしてきた。だが人為的判断は、人間に過度の精神負担を要求する。現在の原発問題や通貨危機などに対峙して、人間の判断力は、この危機に際しての意思決定で試される。常に人間の精神的弱さは付きまとい、心理負担の圧力に耐えることは困難である。

*明治期のアントレプレナール 

おそらくは外圧に屈し新旧価値観の混乱する当時、日清、日露戦争の開戦決断など和魂洋才がスローガンだった時期、社会世相の風潮は、神示運命論的判断が、全てに先行する伝統的価値判断の時代であったと考えられる。当時の西洋でも「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の記述通りに、「人の判断には限界があり、神の摂理に従うのが究極の判断」となる。このような時期のアントレプレナールも、宿世に於ける人間の発想には、科学信仰よりも、神の与えた宿命としての判断が主だったと思われる。

(伊藤と高島を結びつけたもの:小宇宙観)

(視点4)外圧に対抗する為、明治政府が殖産興業、神道統一を急務とした中、この機運に乗じた利権業種の事業化を率先して実行した。表舞台の伊藤と陰の立役者に高島が居た。

(明治の群像:高島嘉衛門・嘉右衛門(1832-1914)の生きた時代世相)

①列強の外交圧力に屈した開国と、その後の日本の混乱、行く先の不透明感

②社会層の急変:下級武士が実権握る不安定な明治政権と没落不満分子の対立

③テロと不穏な世情、経済苦境と対外侵略進出のモーメント、その中で

*政権の開発事業と手を組んだ一部の利権事業者

*官営事業資産の払い下げで巨万の富を獲得する政商、財閥が台頭。

この波を機に乗じ、高島は事業化に乗り出す。

(軍師としての高島翁:伊藤博文の精神的支柱)

*軍師の由来:「大将の元で作戦、計略を巡らす人(参謀)」(大辞泉)

①旧くは神仏への加持祈祷、占星術、易学者。

②中国の兵法書「六韜(りくとう)」、「三略」、「易経」、孫子「兵法」を修得した人。

③軍儀:出陣式、凱旋儀式などの催行儀式を取り仕切る人

④兵法家:竹中半兵衛斎藤家・織田家、羽柴秀吉の参謀)、黒田官兵衛(豊臣秀吉)、山本勘助(武田信玄、晴信)、諸葛亮孔明、ビスマルク(モルトケ)など、

(伊藤博文の参謀役としての高島嘉衛門(嘉右衛門)に焦点を当てる)

伊藤博文(初代総理大臣、明治政府設立、新貨条例、大日本帝国憲法制定発布、日清戦争、日露戦争、大学教育・教育令、特に殖産興業策に功績)1860年前後から、高島翁と親交が開始、高島翁の知見において、主に以下、4点を基軸に政策決定に関与した。

①「開国」:神奈川港(横浜港)築港請負、新貨条例制定(伊藤)期の太政官札投機、

②「殖産興業」:ガス、鉄道、海運、セメント、他利権ビジネス(多くは許可認可産業)

③「学校教育」:料亭旅館経営などから人脈形成の為の学校設立(松下村塾を参考)まで

④「条約対外交渉、軍略」:下関条約(日清戦争・三国干渉)ポーツマス条約(日露戦争)(高島嘉衛門(嘉右衛門)の生涯年譜)

高島(開国派、実業家)と伊藤(愚直な信条家、長州派)との約50年の親交の接点

高島嘉衛門の年譜

天保3年11月3日(1832年12月24日)生れ~大正3年(1914年)10月16日没

伊藤博文の年譜

天保1292日(18411016日)~明治42年(1909年)1026日没)

①幼年年少期

1832年(誕生)-1846年(14歳)

1832年 江戸三十堀町(中央区銀座)の材木普請業の6子に生れる。

(兄全て、夭折のため嫡子となる)

1835年頃から盛岡南部藩、佐賀鍋島藩の江戸屋敷と材木建築、製鉄請負

父:遠州屋(薬師寺)嘉兵衛 

後、嘉衛門と改名 

母:くに  

幼名:清三郎 

姉 2人

弟 高島徳右衛門

*幼少期は財産家の出だが、父の事業失敗で多額の負債を抱える。

*事業においては苦労の多い生立ちであるが、前向きな積極性を持つ実業家で大成しながら、突如、隠遁、天啓神示的易学へ求道した。

1841年 長州周防すおう(山口県東部令制国)貧農で馬車引き、十蔵の子として生れ、後、子減らしで長州藩下僕足軽の養子となる。(早川隆「日本の上流社会と閨閥」、政敵にこの事を非難されると返答に窮したという。後に家系図作成を画策する)

*幼少名:利助(曽祖父 利八郎と助左衛門の初字から)「りすけ」、読替え「としすけ」から

後、「俊輔」、(「しゅんすけ」から、春輔、舜輔)」、これを(「しゅんぽ」と音読みすると)号は「春畝」。他「滄浪閣主人」他通称は多数ある。

*係累少なく不遇な幼少期を過ごす

②青年期 1846年(14歳)-1860年(28歳)

*江戸屋敷盛岡藩の普請事業:東北材木流通、普請、製鉄など藩事業を請負う。父より事業引継ぎ「高島嘉兵門」と改名(「商略奇才高島嘉右衛門」福原律太郎大正2年)。父の亡くなった1854年の後、「高島嘉衛門」と改名。紀藤元之介『乾坤一代男』 高島嘉右衛門伝刊行会、1956年)

*改名については、家業を継いで「高島嘉兵門」、亡父に因み「高島嘉衛門」、易学修学出所後、実業界では「高島嘉右衛門」、易学界では「高島呑象」を名乗る。(諸説あり)

*子供6人、側室「きん」との間の子、髙島長政

*妻:前妻不明

「おくら」「=お庫」嘉右衛門の後妻 神奈川の請負師下田屋文吉の娘。「縁談を持ち掛けたのは、関内富貴楼の吉原上がりの遊女、お倉であった。」(「横浜富貴楼お倉・明治の政治を動かした女」鳥居民著 思草社97年)、

1860年 安政の大地震・大火で、盛岡藩より棄捐令を受けて事業破産、通貨混乱時乗じて金銀両替を不法に営むが、これにて懲罰(懲役5年)。牢獄で「易経」学ぶ。

1865年 江戸払いとなり横浜に追われる。(戊辰戦争の荒廃した江戸を去り、開国に沸く横浜に新天地求める)。

*横浜転居後、高島嘉右衛門に改名。

1859年日米修好通商条約にて横浜開港 

*伊藤博文と料亭での親交始まる。

1857年松下村塾「入門」(高杉、桂と親交)

「松蔭の教え 国家神道」

*身分低く極貧だが熱心な由、塾では当初、塀外で立ち聞きが許された。吉田松陰から「才劣り、学幼し、だが性格は素直で華美になびかず」と評される。

*木戸、井上、高杉は中級武士だが、同窓の山縣有朋も貧農出身で生涯、邯鄲相照らす。後に両者が総理になった事について、同じ長州閥の山縣有朋と対比「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。

*松蔭が安政の大獄で斬首された際、桂小五郎の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸をひきとる。これを期に同門の久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・井上聞多らと倒幕運動に加わる。

*大隈の人物評「私心無く、野心のためには政事を行わなかった」

*大磯別荘地にこぞって政治家は居を構えた。山縣は護衛付き、陸奥宗光は仕込み杖を持って散歩したが、伊藤は農家へ立ち寄り気軽に言葉を交わし、立振舞いは飾らず、庶民と全く変らなかった。

*西郷隆盛下野、西南戦役後、紀尾井坂の変、大久保利通暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、明治指導者層は、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥が支配。

*明治天皇、伊藤の生活乱調を叱咤。

③事業拡大時期 1860年(28歳)-1876年(44歳)

*横浜4大事業

①学校:藍謝堂

②ガス:横浜瓦斯

③港湾④海運の全てに係る。当時横浜は外人居留地であったため外交、接待に利点。

材木普請業から、利権事業の拡大

イギリス公使ハリー・パークスから洋館建設請負(この資金は下関事件賠償返還金から充当された)。

1867年旅館業「高島屋」横浜尾上町(会席料理店「富貴楼」との関連:「歴史評論」港湾荷役人夫、戦前日雇い男性の対抗文化―遊蕩的生活実践をめぐって―」(藤野裕子著)2011)、

1870年 港湾、鉄道、海運業(38歳)

*ボルメトン(米書記官)から鉄道敷設免許を譲り受ける。

*イギリス・オリエンタル銀行へ100万ポンドの鉄道公債募集に係る。

*湾入り口を近道直線で結ぶ埋立事業1400㍍の築堤、鉄道線路敷設を135日で完成(高島町:野毛―青木町間)。大蔵大輔(次官)大隈重信、小輔伊藤博文は、「鉄道は国家事業」嘉右衛門に要請。高島自身は15万円寄附した。

1870年 政府 陰陽道禁止令

天文暦道が東京大学へ移管

*グレゴリオ暦と神武紀元制定

12月が2日間しかなかったため、「月給」の支払いがもめた。勤め人には、一ヶ月分の支給を主張したが、役所や会社では、暦法に関する太政官詔を楯にして不払いにした。

*明治3年(1870年)自らの今後の人生を占い「天火同人」の卦「人と志を同じくして発展する」。嘉右衛門は、これまで家業の発展しか考えてこなかった自らを反省し、国家の近代化に寄与、求道的となり学校教育に関心。

1871年 「藍謝堂」語学学校(通称高島学校または横浜町学校)開設生徒数も700名(39歳)同校から寺内正毅、宮部金吾輩出「高島翁言行録」(東京堂明治41年)私財1万円投じて開学。学校「登槐舎」開設(明治6年)横浜市へ寄附

1872年 皇紀制定、「日本社中」ガス配給事業(42歳)、明治4年、神奈川県令(知事)井関盛艮(いせきもりとめ)が嘉右衛門を訪ね、ドイツ領事がガス灯の建設許可を求めている旨、聞いた嘉右衛門は、清国では道路建設をフランス公使に任せたことで、

後にフランスに利権を取られた事を例にとり、公共事業を外国人に任せるのは国益を損なうとして反対。そこで、井関県令は嘉右衛門を含む横浜の有力者9人を集めて、ガス灯建設では嘉右衛門に一任を決定。

1874年 海運定期航路事業就航

*オランダ領事タックからドイツ客船の買取り話に乗る。(横浜―函館港間「高島丸」就航、後に頓挫)

1863年 下関事件及び薩英戦争

長州藩士となりイギリス留学(開国論主唱)以後、長州主流派。

1864年下関事件賠償交渉に当る。

1868年 倒幕に係り明治政府成立へ尽力

1869年「国是綱目」兵庫県知事

殖産興業を主唱し(工部卿)

立憲政友会総裁

1870年 新貨条例(初めての貨幣法を制定)

1872年鉄道敷設(殖産興業策の主導として鉄道事業を実施)

1872年 6月 品川―横浜間、

    9月 新橋―横浜間開通

1873年大久保、内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権。学制、地租改正、徴兵令「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進。

(伊藤は大久保派に所属)

*明治天皇に信任。「無骨な正直者、私欲の無いこと」が高く評価される。

*日清、日露戦争直前の御前会議では、開戦決断に当り伊藤の意見を重視した。当日「万一、我国に利在らずば、畏れながらも陛下に居らせられても重大な御覚悟が必要かと存じます」と奏上。

*西南戦役(戦争)

西郷隆盛は自分を慕う士族を連れて、鹿児島で反乱を起こす。大久保は政府軍を派遣。嘉右衛門は伊藤博文の依頼を受けて易を立て、その結末も予想。上も下も「山」を表す「艮為山」という卦。八卦の「山」は、土を盛ったお墓を意味する。西郷隆盛は西南戦役で政府軍に敗れ城山で切腹(享年49歳)。その翌年、勝者であったはずの大久保利通は不満旧士族たちにより暗殺(享年46歳)。(紀尾井坂の変 明治11年)

明治期の内戦、日清、日露戦争と当時の運命論、宿命論

日露戦争は祖国防衛戦争論が支え、明治期の政治家は常に日本の被植民地化の可能性を念頭においていた。

④事業隆盛期 1876年(44歳)-1892年(60歳)

*事業家としての最盛期を迎えるや易学創始、大綱山に隠遁。1876年 易学創始「高島易断」筮竹(ぜいちく)法の確立、「易字字典」執筆。「呑象(どんしょう)と名乗る。

(勝海舟の命名説あり:陸軍は長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固めた藩閥対立の中で海軍卿、勝海舟とも親交があったとされる

1879年 推命学 神宮司庁が領暦権

1880年 西洋手相術伝承

1887年「高島易断」全10巻 

(後、漢訳され袁世凱、李鴻章も学ぶ)

1887年 従五位勲四等叙勲

1888年 英訳「高島易断」を出版、米国シカゴ世界宗教会議へ出展

1887年 ・愛知セメント事業

1892年 ・北海道炭礦鉄道、

・北海道拓殖事業

・東京市街鉄道事業

・清水次郎長の開拓事業から富士裾野用地買取:県令大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕を開墾

*日本の近世会社制度は神社に起源(坂本竜馬:亀山社中など)があった。一方、明治政府は大教宣布を通じて神道政策を統一的に推し進めたため、祭神論争が生じ様々な対応が、この時期繰り広げられた。

1894年 81日 日清戦争

1897年 著作「宗教論」出版

1898年 陽明学 安岡正篤生

1911年 鍋島直大(高島と取引関係のある元佐賀藩藩主)皇典講究所所長となる。

1904年 日露戦争

漢訳「高島易断」出版

1909年 伊藤博文が、高島邸訪問

「艮為山、三爻変」(ごいんざん さんこうへん)重なる山なみ。動かざること山の如し。小さい功利の為に大きい目的を失う・凶意の卦

*易は陽と陰の2つの組合せで、天地万物が構成されていると考える

「人間は自力で判断に迷うと、あらゆる経験や科学的な知識を用いて何かしらの行動や決断をするきっかけを求める」。そのような場合、人間は経験や科学的な知識だけでは満たされず、人間の力を超えた神秘的な要素も求める。一方で易の占いは、「易経」に書かれている内容を吟味し、現実の世界での道理や原理と照らし合わせて解釈。

髙島「易は神と人との交話であり、占いは人生の正しい道を展望してその一々を指摘するもの」

*占いを宗教儀式(神の啓示を得る手法)と捉える理解は、政教分離の米国、日本などでは一般化される。また政教一致、コンコルダート(政教協約)と捉える国家も多く存在。

高島自身は易学を宗教儀式と理解。

*プロパガンダ利用

日清、日露戦争遂行の世論形成でも高島易断は、国民新聞、郵便報知新聞に掲載される。

1879年「教育議」教育令発布

東大他教育機関設置

1882年明治政府 政教分離、信教の自由を受けて神道研究の皇典講究所設置(3府40県)

*松下村塾との関連:国家神道

「一君万民論」

1885年「天津条約」交渉(対、李鴻章)

*初代内閣総理大臣(大久保利通死後、公家出身の三条実美と総理職を競うが、井上馨が強く推す)

*内閣総理大臣(初代、第五代、第七代、第十代、貴族院議長(初代)

1889年 大日本帝国憲法発布

1896年 三国干渉の引責辞任

1898年 明治天皇より、私財無く清貧を、褒められ手許金(10万円)拝受

1900年 立憲政友会党首

(後、立憲民生党と2大政党となり、大正デモクラシーでは「打破閥族・擁護憲政」へ発展)

*戦争遂行のプロパガンダにも積極的であり、大阪朝日新聞(明治11年創刊)は、当初、伊藤政府と三井銀行が資金援助する御用新聞だったとされる。明治21年には、伊藤博文の腹心伊東巳代治が「東京日日新聞」を買収し、伊藤系長州閥の御用新聞となる。(『輿論と世論 日本的民意の系譜学』佐藤卓己 新潮選書)

*「世相百態明治秘話」石田龍藏著東京日本書院,1927年では「伊藤公映畫利用 活動寫眞を廣告其他に利用する事は年々發達して來たが、中にても之を最も有意味に活用されたのは、伊藤公であつた。といふのは伊藤公が日露戦後朝鮮に對する政策に就て、多大の苦心をされた事は誰れもが知つてる通りであるが、皇儲殿下を日本へお迎へ申してから、殿下の日常に就いて多大の注意を拂はれ、殿下が御見學旅行、御避暑其他の御動靜に就いては大低吉澤商店から技師を伴はれて、殿下の御行動を一々ヒルムに収め、之を韓國に送られて、皇室を始め一般に映寫して見せ、殿下のお側には伊藤公が常に附添ふて居る。そして非常なる鄭重な待遇を受けさせられて居る事を目のあたりに見るやうに謀つたので、朝廷を始め一般の人逹の心情は大に融和して、彼の併合でも何の故障もなく運ぶ事が出來たもので、映畫の効カは絶大である事が知れやう。だが、此の伊藤公が映畫を利用したと云ふ事に就いては餘り廣く知られて居ないが、夫れが明治の末期、まだ映畫の極めて幼稚なる時代に、既に之れだけの活眼があつた伊藤公も、此の映畫夫れ自身も、共に永く誇るべき事柄であらうと思ふ。(中略)」とある。

⑤晩年終焉期 1892年―1914年(82歳)

*隠遁後、易学で大成「易聖」とされる。(この生前の聖名については長州派の影響と考えられる。乃木「聖将」)

1914年 第一次世界大戦 

高島山公園(望欣台:写真 易室「神易堂」で著述に当たる)にて没。

11月17日(享年83歳)

高島「ことごとく易を信ずれば、易無きにしかず」「易は神の啓示であり、神の賜物」易は神意を聞く手段(占告神示説を唱える)「神道実用論」於、皇典講究所での講演会

1898年 日清戦争

 三国干渉で総理を引責辞任

1905年韓国統監(初代)

1909年ハルビンにて遭難

(享年69歳)

11月4日 日比谷公園で国葬

「伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう。」

(政敵であった)尾崎行雄

褒章

菩提寺

係累

1887年正五位勲四等(海防費1万円献納 高島学校設立・横浜市へ寄附の趣意)

墓:泉岳寺「首洗いの井戸」傍

戒名:代観院神易呑象居士
墨田区の木母寺(もくぼじ)「天下の糸平」碑(伊藤博文記)の裏に奉賛者・高嶋嘉右衛門が刻まれている。

従一位

大勲位菊花章

公爵・博士(イェール大学)

伊藤博文の長男、博邦の妻は嘉右衛門の長女、たま子。

(一般に紹介される高島像)

①利権ビジネス(政府、鍋島藩、行政)に絡んだ仕事、藩米、材木の買付けなどにより利権接近。他、海運、石炭、鉄道、セメント、ガス、学校など公共事業へ進出。

②情報局として会所・会館経営及び高島遊郭開業(外人接待)政界コネクションを利用した戦争軍需政商。伊藤博文(長州閥)に接近、長娘が伊藤家へ嫁いだのは政略。

③外資と手を組んで外圧を加え、国から予算を引き出す手口。
外圧は日本への外資資本進出が狙い。この外資と手を組んで先導に立って明治政府へ圧力かける。大陸進出、日清、日露戦争も外資、政商が絡んだ利権獲得(三井のドル買い)
日英同盟の意味では、日本艦船、武器も全て英国製で提供を受け、戦費もイギリス借款のイギリスの利益に立った、日本が手先に立った代理戦争だった。

④占いを利用し、政治に助言する情報屋。

⑤築港、鉱山・港湾労働者を組織化し率いる。
清水次郎長との交流と富士山裾野土地開発事業など。米国は神奈川湊を開港に指定、明治政府は、外人と庶民の接触を忌避して新田開発の横浜を開港提供、外人居留地とする。居留置は治外法権であることを利用した商売、この利権の多くは政商が手に入れる。

⑥金投機での外資エージェント
キネフラ(オランダのユダヤ金融業者)と連携した小判金の銀貨交換と金の海外売却で暴利、これにより投獄される。さらに金札投機(太政官札の暴落を利用したドル両替による蓄財)で資産獲得。

⑦ 晩年は社会奉仕(これも公共事業)  

以上だが、実像は異なると考える。

3.功績の評価(明治の精神が問いかけるもの)

(視点5)私財にまったく固執しなかった貧農、松下村塾出身の伊藤、そして横浜に私財を慈善、寄附した晩年の高島などに、両者、共鳴するアントレ「(武士道にも似た)私心無く純粋、ロマン的な小宇宙観」という、我々の今、振り返るべき明治の精神があったと考えられる。

(皇国史観と松下村塾)

「松陰は幼少時、当時の武士の教育としての四書五経の学習をした」森田惣七著 「吉田松陰の人間観」引用)

①「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」

②「志を持て、そして気力を養え。ただしそれだけでは学者にすぎない。旺盛な行動力を持って行動せよ」

③「志を立ててもって万事の源となす」

④「国家を治むるの要、民心を得るに在り。民心を得るの要、文徳を修むるに在り」

⑤「山は樹を以って茂り、国は人を以って盛(さかん)なりと」

⑥「己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る。恐るるにたらず」

⑦「凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし」

⑧「体は私なり、心は公なり公を役にして私に殉(したが)う者を小人と為す」

皇国史観は、水戸光圀(弘道館)編纂「大日本史」(全十六巻)により水戸学は勤皇の先鞭だったと主張、一方、長州派は、松下村塾(吉田松陰)で対抗した。吉田松陰門下の広沢兵助、前原一誠と桂小五郎(後に木戸孝允と改名、伊藤博文や井上馨を率いる)などがいる、幕末の長州は家中侍の教育用に、江戸中期の明和四年に編纂された「御家誠」を安政二年に藩の儒臣中村清旭に判りやすく書き直させ、長州の国定教科書として藩校明倫館だれでなく、私学や私塾においても藩士子弟の教育用に使うことを義務づけた。吉田松陰は中世の輪廻の思想を加味して「人間は一度死んでも、また七回までは生き返ってくるものだから、七生報国の精神を持て」と主張する。伊藤に最も影響を与えた教義であった。

(司馬遼太郎「明治という国家」:「明治の精神」について引用)

「『日本および日本人とは何か。』という説明をもとめられたとき、明治人は武士道をもち出さざるをえなかったのです。ではサムライとは何か、と問われれば、自律心である、ひとたびイエスといつた以上は命がけでその言葉をまもる、自分の名誉も命を賭けて守る、敵に対する情。さらには私心をもたない、また私に奉ぜず、公に奉ずる、ということでありましょう。それ以外に、世界に自分自身を説明することはなかったのです。そしてそれは、りっぱな説明でもありました。すくなくとも日露戦争の終了までの日本は、内外ともに、武士道で説明できるのではないか、あるいは、武士道で自分自身を説明されるべく日本人や日本国はふるまったのではないか、と思います。皮肉なことに、武士が廃止されて(明治四年の廃藩置県)武士道が思い出されたといってよく、過去は理想化されるように、武士道もまた理想化されて明治の精神になったと思います。―――新渡戸稲造の『武士』より」明治になり武士階級が無くなった時、多くの元武士達及びその関係者(子供達を主に考えて下さい)は、既に存在しなくなった武士というものに対する哀愁の念を抱いたと思うんです。そして、自分のなかである理想的な「武士像」を作り上げていったのです。『約束』の為に命をかけるような生真面目さ。そして一種思いつめたような行動が明治人をして当時世界一と思われる程、崇高な精神を身につけさせたのでしょう。」(傍線論者)

*内村鑑三「後世への最大遺物」岩波文庫演説集。明治27年7月講演。2週間後に日清戦争の宣戦の詔勅(箱根の芦ノ湖畔で開催されたキリスト教徒第6夏期学校での講演。33歳)
 一代のわずかな生涯を通じてわれわれはいったい何をこの世の中に遺しうるのであろうか。まず一番に大切なものは金である。遺産金を子供だけでなく社会に遺して逝く。このことは悪い事ではない。しかし、金を遺すには才能がいる。エビス様のような人相でなければまず無理だ。自分は鏡を見ると貧相なのでまず見込みがない。
 次に大事なのは事業である。水路を開き堤防を築く土木工事によって灌漑された田地は、数千石の富を後世に伝えることができる。しかし、事業をなすには人々の支持による社会上の地位がいる。自分は友達も少なく社会の賛同を得られそうもない。
 三番目に考えられるのは思想である。頼山陽の日本外史は王政復古の原動力となり、新日本国を生みだした。しかし、思想は必ずしも正しく、また平和をもたらすとは限らない。ジョン・ロックの書をルソー、モンテスキューが繋ぎフランス革命があった。クロムエルはその思想のため自ら剣をとり、戦場に赴いたのだ。自分は貴いものであると思うが、思想を遺すことは金や事業を遺すより至難である。
 では、金も、事業も、思想も遺せない。いったい何が後世に遺せるのだろうか。
 それは、前の三つとは違い誰にも遺すことのできることで、利益ばかりあって害のないもの、すなわち勇ましい高尚なる生涯。この世の中は失望の世にあらずして、希望の世であることを信じ、この世の中は悲嘆の世でなく、歓喜の世であるという考えを、生涯を通じて実行してゆくこと。ひとりひとりが後世のために、弱いものを助け、艱難に打ち勝ち、品性を修練し、義侠心を実行する。こういう生き方を後に続くものへ伝えてゆく。これこそがわれわれが後世に遺す最大遺物である。」
(傍線論者)

内村鑑三は文久元年(1861年)譜代高崎藩の下級武士の家に生まれる。札幌農学校第二期生として学び、同期では後に国際連盟の事務次長になった新渡戸稲造がいる。明治という時代で日本が近世と近代、東洋と西洋との融合と葛藤のなかで揺れ動いていた時期の思想界における有力な存在だった。

(高島翁の残した教訓)

高島翁は、晩年は、隠遁し、私欲を離れ、生前に興した港湾事業の殆んどを、横浜に寄贈し、国にも献上献金した。後世の我々に残したものは易学だけでなく、混乱の中で生き抜く知力や精神力(伊藤は、純潔、礼節)であることを生き様をもって、教えてくれる。

私たちが困難に立ち向かうとき、勇気を奮い起こさせてくれるのは、科学的根拠や理屈であろうか。私欲を離れ、純粋、客観的に物事を直視することは、易にも通じるが、物事の本質を見抜くために必要な事である。自己の利欲に全く囚われなかった明治の群像は純粋な物事の見方。また後世に「生き方」を伝えていく使命が、困難に対峙する私たちの責務である事を示してくれる。

ウェブページ

資源貿易 第二研究室 (資源開発・貿易のページ)

資源貿易 第四研究室 ー中国・アジア貿易ビジネス編ー

資源 貿易 資料データ

  • 資源 貿易 資料データ

新生・ライカ紀行

DHL スイスビジネス事情